おはこんばんにちは。「め」の字です。
突然ですが、Aさんは、頭の中で、好きな果物をひとつ思い浮かべてください。
Bさんは、その果物を当ててください。
「りんご?」
「ちがう」
「バナナ?」
「ちがう」
「みかん?」
「ちがう」
さて、何回くらいで当てられるでしょうか。
では、少しだけヒントを追加しましょう。
「もっと長い」
「バナナ?」
「もっと細い」
「じゃあ、サトウキビ?」
「ちがう。もっと硬い」
ずいぶん具体的になってきました。
けれども、Bさんは、なかなかAさんの思い浮かべているものを当てられません。
これってBさんの能力が低いからでしょうか?
実はAさんには、こっそりこんな指示を出していました。
「果物ではないものを思い浮かべてください」
Aさんが思い浮かべていたのは、えんぴつでした。
おいっ!当たるかいっ!!!
「正しいフィードバック」は、機能するフィードバックなのか
でも、Aさんは間違ったことを言っていたでしょうか。
えんぴつを基準にするなら、
「もっと長い」
「もっと細い」
「もっと硬い」
という情報は、それぞれ正しいかもしれません。
それなのにBさんは、正解にたどり着けなかった。
ここに、フィードバックについてのおもしろい課題があるように思います。
フィードバックが正しいことと、そのフィードバックによって相手の学習が前に進むことは、同じではない。
音楽のリハーサルでも、
「もっと長く」
「もっと高く」
「もっと明るく」
「そうじゃない」
「ちがう」
という言葉を使うことがあります。
もちろん、言っている本人には聞こえているものがあるし、頭の中には「こうしたい」という理想もある。
だから、その人からすれば「ちがう」は正しい。
しかし、言われた側には、その音楽は聞こえていません。
「もっと長く」と言われて長くしてみた。
「ちがう、まだ短い」
じゃあもっと長くしてみた。
「そっちじゃない」
こうなると学習者が取り組んでいる課題は、いつの間にか、
「自分たちの音楽をどうしたいか」
ではなく、
「相手の頭の中にある正解は何か」
にすり替わってしまっています。
これでは、先の果物当てゲームとあまり変わらないのかもしれません。
そもそも、同じ「果物」を知っているのか
さらに厄介なことがあると考えます。
今度はAさんもBさんも、ちゃんと果物を思い浮かべているとしましょう。
でも、Aさんはブラジルで育ち、Bさんはスウェーデンで育った人だったら?
ふたりが生活の中でで出会ってきた果物は、同じでしょうか。
「果物」という言葉そのものは共有できていても、その言葉から想起する経験やイメージまで同じとは限りません。
音楽では、これがもっと頻繁に起こる気がします。
「もっと前の方で」
「もっと開放した音で」
「もっと暗く」
「もっとやわらかく」
「もっと自然なフレーズを作って」
日本で合唱活動をしている人であれば、耳にしたことがあるのではないでしょうか。
だいたい、わたしたちは同じ言葉を使っている。
でも、その言葉から想起する音、身体感覚、音楽経験まで、本当に同じなのでしょうか。
わたしは日本の音楽大学で西洋音楽を学びました。
でも、わたしが経験してきた「西洋音楽」と、アメリカで育った音楽家や、ドイツで音楽教育を受けてきた音楽家が経験してきた「西洋音楽」が、完全に同じでは……ないですよね。
同じ言葉を知っていることと、同じものを見ていることは違う。
これは音楽を考えるとき、かなりこわいと感じます。
だったら、歌えばいいこともある
わたしは、最近、自分がどういうフィードバックを受けると学びやすいのか、少しずつ分かってきました。
たとえば、言葉で、
「もうちょっとこう」
と何度も修正されるより、
「一度、一緒に歌ってくれる?合わせてみるから!」
の方が圧倒的にはやく解決することがあります。
実際に音を共有すれば、
「ああ~、そのタイミングのことを『長い』と言っていたのね」
と分かる。
これは「言語によるフィードバックは悪い」という話ではありません。
言葉で考えることで大きく変化する人もいるでしょう。
モデルを示されるより、自分で探索した方が学びやすい人もいる。
逆に、自由にさせるより条件を絞った方が、一気に音楽が動き出す人もいる。
今日、指揮教育について安積道也先生がXに投稿されていました。
受講生の指揮に手を入れる時,いつも厳しい決断を迫られる。技術から解放することで音楽が動き始める人もいれば、振りを制限することで音楽が生き生きしてきる人もいるからだ。この判断を誤ると、全てが止まってしまう。常に真剣勝負の三日間だった。
— Michiya AZUMI (@KichenMusik) 2026年8月17日
これがとても印象に残りました。
自律とは、放っておくことではない
ここ半年くらい、「学習者の自律」について考えています。
教師やコーチは、学習者に課題を与える人なのだろうか。
それとも、学習者自身が課題を発見し、試すことのできる環境をつくる人なのだろうか。
去年のHarmony Universityで出会った音楽教育の実践を振り返ると、後者につながるものがいくつもありました。
録音した演奏を生徒にすぐ聴かせ、教師は何も言わない。
生徒自身が「次に何を変えたいか」を考えて、もう一度演奏する。
教師が外からテンポを与え続けるのではなく、生徒自身が拍を感じ、テンポの主導権を持てるようにする。
教師が練習する箇所をすべて決めるのではなく、生徒自身が曲をどのように練習するか考える。
ただ、それでも、「教師は何も言わない方がいい」という話でもないのでしょう。
学習者によっては、情報を渡した方がいい。
制限した方がいい。
モデルを示した方がいい。
問いを投げた方がいい。
あるいは、何も言わずもう一回歌った方がいい。
大切なのは、その介入によって、学習者が次の試行をできるようになるかという視点かもしれないと思っています。
コーチングには魔物が潜んでいる
コーチングのこわいところは、悪意ではなく善意の中にあるように思います。
教える方には知識や経験がある。
そして何より、「この人たちをもっとよくしたい」と思っている。
だからこそ、自分に見えているものが相手にも見えているような気がしてしまうことがある。
そして、何度伝えても相手が変わらなかったとき、学習者の能力の問題として説明することもできてしまう。
でも、その前に一度だけ考えてみなければなりません。
わたしたちは、本当に同じ果物を探しているだろうか。
そもそも相手には、私が見ている果物が見えているだろうか。
そして私が今渡した情報によって、相手は自分で次の一手を選べるだろうか。
コーチングとは、正解を知っている人が、知らない人を正解へ連れていくことではないのかもしれない。
わたしが目指したいコーチングとは、
学習者が自ら知覚し、問いを見つけ、試し、評価して、何度も試すことができるように、介入の量と方法を選ぶこと
なのではないか、と考えています。
もちろん、これはわたしの仮説です。
そしてこの仮説を書いているわたし自身がこれまで何度も
「ちがうちがう、そうじゃない!」
と人に言ってきました。
デカいブーメランが、背中に刺さっています。
教育ってむずかしいですね。
だからこそ、おもしろくて大好きです。











